怨憎会苦について

怨憎会苦(おんぞうえく)とは

怨憎会苦とは

怨憎会苦とは、憎む対象に出会う苦しみのことを意味します。
仏教では、嫌いな人と出会うことや嫌なことが起こることを、生きる上で避けられない苦しみであると捉えます。
そして、嫌な気持ちになる原因は自分自身の中に怒りの種があるからだと、仏教では説かれます。

怨憎会苦は四苦八苦の一つに挙げられています。
これは苦諦に含まれる苦しみのことであり、人が生きていく上で避けては通れない「苦」を表しています。


怨憎会苦の原因

怨憎会苦の根本的な原因は、「無明」と「煩悩」です。

無明(むみょう)とは、真理を知らないことを意味します。
社会生活を送る上では、気が合わない人や憎い人とも協力しなければならないことがあり、人間関係は生きる上で逃れられない様々な事情があります。
そのような世の中に多数ある無常(思い通りにならないこと)や人間関係の複雑さを理解できていないことは苦しみを生む種となります。

煩悩(ぼんのう)とは、人間の心を悩ませ、苦しみの原因となる尽きることがない欲望や妄念、妄執などを指します。
相手を自分の思い通りに扱おうと思ったり、期待通りに他者が動くと考えたり、嫌いなものを遠ざけたいという執着は煩悩です。
そして、その煩悩が叶わない現実に対して生まれる心の痛みが怨憎会苦となります。


瞋恚(しんに・しんい)について

怨憎会苦によって発生する怒りを仏教では「瞋恚」といいます。
「瞋」は怒りで目を見開くこと、「恚」は恨みや感情をあらわにすることを意味します。
つまり、瞋恚は思い通りにならないと腹を立てること、憎しみや嫌悪を持つ心を指します。

瞋恚は根源的な煩悩である「三毒(貪・瞋・癡)」の一つに挙げられています。
仏教においては、瞋こそが自他に苦しみを生み出す原因として深く戒められています。


怨憎会苦への対応方法

1.怨憎会苦があることを受け入れる。

人生において、嫌いな人・嫌なこと・苦手な環境と出会うのは、避けられない苦しみであることを受け入れます。
誰にでも嫌なことや気が合わない相手は存在しており、それが当たり前である事実を知り、理解します。
古今東西、世の中このような苦痛が当たり前に存在していることを肯定します。


「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、今に始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語るものも非難される。
非難されない者はいない。
ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう。
現在にもいない。」
(ダンマパダ 227,228 中村元訳)

2.執着を手放す

怒りが生まれる原因は、相手が自分の期待通りに動かない時に生まれる執着心です。
執着は仏教では「しゅじゃく」と読み、悟りの妨げとなること、意地を張ること、しつこく取り付くことを意味します。

例えば、他人からの評価を気にすることは執着です。
他人に自分はこういう風に思われたいと願うことは、他人の思考や感情を強要することであり、思い通りになるはずがありません。
多くの場合にそのような自分勝手な期待は裏切られ、これが相手への怒りや憎しみに変わっていきます。

怨憎会苦を乗り越えるには、執着を手放すことが重要です。
自分の思い通りになるように相手を変えるのではなく、他人への自分勝手な期待を捨てます。
他人の評価や言葉に振り回されることなく、自分軸で生きていくには執着を捨てさることが必要です。


3.他人の怒りを受け取らない

自分に非がなくとも、不意に他人から怒りや非難を投げかけられることがあります。
多様な考えや価値観を持つの多数の人間が共同生活を行うことは、どこかで衝突を生み出します。
たとえ親切で行ったことでも、人によっては耐え難い不快に感じて、復讐心を芽生えさせるかもしれません。
これこそが怨憎会苦です。

怨憎会苦は社会生活を送る上で必ず発生します。
なので、そのような相手の怒りや嫌がらせをどのように受け止めるかが最も大事なことになります。
最も簡単で効果的な対応方法は、負の感情を受け取らないことです。
現在の自分がすべきことに意識を向けて、過去の嫌な記憶や未来への不安を手放します。
自分を守り心を穏やかに保つことに集中して、よりよい人生を送る努力をすることに注力します。


怨憎会苦に関連する考え方

諦観(ていかん)とは

諦観とは、物事の本質や原因をはっきりと見極め、その上で執着を手放し、冷静に受け入れる悟りの境地のことです。
これは、なにかを諦めることや投げやりになることとは異なり、「諦(あきら)かに観る(見る)」とことを示します。
諦観は、感情的に諦めるのではなく、冷静に事実を把握し、心を平穏に保つという前向きな意味の言葉です。


善因善果・悪因悪果(ぜんいんぜんか・あくいんあっか)

善因善果とは、善い行いは善い結果をもたらすという意味の仏教用語です。
これは、日頃の行いが未来の運命や結果を左右するという因果応報の考え方であり、誠実な行動や徳を積むことの大切さを示す教えです。
怨憎会苦に対して復讐心や他人を傷つける行為をせず、誠実な行動や他者への思いやりなど正しい行いをすれば結果的に幸運が返ってくることになります。

悪因悪果とは、悪いことをすれば必ずその報いとして悪い結果がもたらされるという意味の仏教用語です。
常日頃から悪い言葉、嘘、他人を傷つける行為などの悪業を行っていると、それは結果的に自身に返ってくることになります。
怨憎会苦に対して復讐や憎しみを持つことは、自身の幸福を遠ざけてしまうことになります。


自因自果(じいんじか)

自因自果とは、自分に返ってくる結果は、全て自分の行為によるものであるという考え方です。
これは、自分のまいた種の結果は全て自分自身が刈り取らなければならないという、逃れられない因果の道理を説いた仏教の教えです。
良い結果と悪い結果の原因は自分にあると認めることは、自身の運命を正すきっかけとなります。


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